ラダック カンヤツェⅡ峰遠征記 5 アタック~下山(長いです)

 


高所医学は特殊な為、なかなか目にする機会がないので、高度がいかに人間にとって過酷な要素であるか、一般にはなかなかわかりづらい。大変そう、というくらいしかわからないと思う。

一般法人日本登山会のHPは非常にわかりやすいのでご一読をお勧めする。

高所医学とは (jsmmed.org)

 

山岳医学会での高度の定義

  • 高高度(High altitude)= 1,500〜3,500m
  • 超高高度(Very high altitude)= 3,500〜5,500m
  • 極高高度(Extreme altitude)= 5,500m〜 
  • 8000m~ デスゾーン(人体は適応不可とされている)

極高高度以上の山は往々にして政府の許可及び入山料が必要となり、ある程度アプローチに日数を要する。そのような長期にわたるキャラバンを含む遠征のことをEXPEDITIONと呼ぶのだが、チャンレンジが難しい秘境の高所登山をする場合にこの言葉が用いられる傾向が強いようだ。

登る側も相当する登山技術と経験および体力が求められる。そしてそれよりも大切なことは高度に対する耐性である。

 

 

以下は東京医科大学渡航者医療センター 増山茂氏のレポートから概要を引用。

「気圧は標高でほぼ決まり、空気中の酸素分圧も自動的に決まる。さらに、体内の酸素レベルは人によっても状況によっても違う。空気中の酸素は、富士山 (3776m)で平地の 2/3、エベレストの BC(5200m)で半分。体内の酸素は空気中よりさら少なくなって、平地と比較すると富士山頂で半分、エベレストBC で 1/3になるという。しかもこれは高所適応ができている場合の話である。」

2000mでもどうしても無理な人、危機的症状を発症する人もいるし、通常問題なくてもいつもOKではないと聞く。

高所では呼吸活動(酸素供給運動)以外が抑制され、睡眠が難しくなり消化能力も落ちる。さらに睡眠時は呼吸心拍とも落ちるため、睡眠中に発症・悪化が起こりやすい。しかし睡眠薬・アルコールの類は呼吸をさらに抑えるため厳禁である。不眠症には厳しい環境だ。

高度が人に与える影響 - Wikipedia

 

 

実際に経験ができる機会が少ない為、自分がその日その時どうなるか、いってみないとわからない。

私はこれまで歩いた最高高度が4900m、車で越えたのが5300m。どちらも問題なく、準備のため毎週登った富士山で、御殿場口から山頂まで5時間以下で登っても頭痛もしないので自信はあったが、慎重に順応を行った。現在山岳会にも所属していない為、海外保険の類も相応がなく、海外登山向けの特別な保険も検討したが審査に時間がかかり間に合わなかった。仮に間に合っても驚くほど高額の為加入はしなかったであろう。

 

そのかわりに薬の処方にはお金をかけた。隊員が見つけた某クリニックにて、高所処方料を特別にとられるが、肺浮腫のためのシアリス、脳浮腫の為のレナデックスをそれぞれ2日分4錠ずつ(レナデックスは多発性骨髄腫の治療に使う劇薬である)。脳浮腫・肺浮腫は危険だ。ダイアモックスは別の医院にて250㎎錠を12日分処方。予防としては125㎎でよいので24日分まかなえる。高所処方だと自費診療になるため非常に高額となる。

 

 

こうして5060mまでは全く問題なく順応ができた。BCで走っても通常と変わりなかった。この日はアドバンスベースキャンプ(ABC)まで雪の状態確認もかねて行ってみようということになった。朝ごはんを済ませて10時頃からスタートしたと思う。マーモットのいる丘をのぼって、ABC5500 mまで高度差500m、2時間ほどだった。問題なし。ちなみにここでアドバンス(前進)BCを構えることはなく、どのパーティもBCから往復していた。

 

戻ってランチは赤インゲンたっぷりの豆カレー。しばらく寛いで夕飯が6時ごろ、軽くショートパスタ。このあと仮眠して12時半におかゆをすすってから深夜1時スタートの予定である。この日の記憶が不確かなのは興奮の為であろう。

わたしは2時間ほど眠ったがワンボさんも隊員も眠れなかったそうだ。そして支度をしていよいよ出発したのが7月14日の午前1時半になっていた。

 

 

真っ暗な中をヘッドライトで進む。寒さは思ったほどでなく、2枚重ねのメリノウール長袖にハードシェル(防水防風のアウター)のみで問題ない。ゆっくりとマーモットの丘からABCを目指す。ABC5500mでインナーにパタゴニアのナノエアを追加(防寒着)。手袋もファイントラックの2重冬用からVBLシステムに変える。VBLシステムとは南極の越冬隊やアラスカなど極地で使われる特殊な保温システムのグローブで、長年持っていたが出番がなく、今回初稼働である。結果的に効果は抜群であった。アイスクライミングや冬山をやるようになってからだが、手足が極端に冷えやすく、他人がホカホカしているときでも指先が真っ白になってしびれる。足の親指は厳冬期の西穂高で軽い凍傷になっている。私は高度は大丈夫そうだが何しろ寒さが一番の心配だった。が、これならもっと高所も行ける。

 

いよいよ本番で予定では14時間ほどの行動の為、最初は抑えに抑えてカタツムリのごとく進む。昨日の昼間とうってかわって、水の流れていたマーモットの丘は凍って滑る為、慎重に場所を選ぶ。ABCまで2時間半ほど。そこからトラバース開始地点まで登ってからアイゼンを装着する。ここからは白い世界のみである。進んでも進んでも果てしなく続く雪の斜面。それも思ったより斜度があり、感覚では45度?座って休む場所もない。

 

 

ソナムがトップ、わたしはぴったりついて歩ける。後ろはあきがちだが、ワンボさんがラストを守ってくれているので安心だ。一応ハーネスは装着しているが、アンザイレン(ザイルにつながって歩く)の必要はなく、雪もまだ締まっているし、深いが先行のステップを確実に拾って歩けば問題ない。もう時間の感覚もなく、ただただ1歩に集中する。やがて気が付くと背後に月が上がる。7月6日が満月だったそうだがすでに半分以下である。

 

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そうして何度か雪の中で立ち止まってのレストと言われるが、せいぜいテルモスのお湯を少しすするだけである。手袋をとって写真を撮る余裕もなく気もしない。下手に落としたら二度と回収できないし、致命的だから。

やがて藍色の空に曙光が差し始め、カラコルム方面の峰々が真っ赤に染まる。これがたとえようもなく美しかった。だれも写真に収めることができなかったが一生忘れられないほど目に焼き付いた。

 

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自覚は全くなかったが、後から記録計で確認すると、登りはほとんど心拍180~200前後を記録していた。長い時間がすぎて頂上直下にちかづくと、先行の6人ほどのパーティに追いつく。2人が遅れて座り込んでいるが、トップのソナムに上から声が飛ぶ。どうやら遅れている二人を連れてきてほしいといっているようだ。ソナムが声をかけて二人を立たせるが、ノロノロである。その時、隊員がソナムに「頂上は我々でで一緒に踏みたい」と告げる。そこでソナムはトップを私に譲る。意気揚々、この先行を抜くよ、いいかと確認したが、隊員クラクラしながらついてきたようである。私はもうそこに迫ったサミットに、返ってアドレナリンマックスとなりガシガシ進める。

 

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長い間待ち望んだ目標がそこにあるのだ。最後の岩峰を回り込むと目の前が山頂であった。よろよろ登ってくる隊員に、がんばれ、ここまでこい、と声をかけつつステップを切って待ち、9:10到達した。7時間半ほどであった。

 

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先行のインド人若者パーティも「CONGRATULATIONS!」と口々に叫びながら迎えてくれた。わたしは5年待った瞬間であること、62歳で6250mなのだということを泣きながらまくしたてつつ頂上に立った。うれしかった。この高度で、体内酸素は平地の1/4程度だろうか。だが一切苦しさも感じなかった。心は晴れ晴れと喜びに満たされていた。目の前のⅠ峰がいかにもヒマラヤという様相でかっこよかった。

 

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しかし下山は大変だった。これほど消耗したことはないというほどヘトヘトで、しかも雪が緩んで一歩ごとにアイゼンはまんまるのダンゴになる。そのままでは危ないのでいちいちピッケルでたたいて落とすのが難儀。一部バックで降りるほどの斜度だが、一歩で靴先は丸くなるので雪に刺さらず意味がない。果てしない斜面をひたすら歩いて、豆粒のようなBCが見えてからも何時間もたったように思う。

 

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何度もレストして、途中、やっと配給してもらったパックのジュースが死ぬほどおいしかった。ここまでほぼ飲まず食わず。お腹も減りすぎてすでに吐き気がするが、やっとアイゼン装着ポイントあたりまできたところでゆで卵を1個もらう。これが口にする初めての食べ物だ。塩がおいしくて一粒残らず舐めた。やがてやっとABCについて、もう大丈夫なのでアイゼンを脱ごうとしたら左足がパカンと取れてしまった。見れば靴底が崩壊してぶらぶらしている。

 



実は出発前準備で、同じ時期に買った隊員の靴が同じく崩壊したのだ。彼はしかたなく新調してきたのだが、私も不安で確認したところ出発前は異常なかった。それがここまでもってくれたのは、仏様のお守りとしか思えなかった。ゴンパ巡りの時に、すべての厄災から守ってくれるという仏様に、どうか守ってくださいとお祈りしてよかった。

後日談だが、帰国後さっそく新調しにいったところ、隊員同様、最後の1足というサイズがぴったり合って、2/3の価格で入手できた。新しい靴ができたからにはまた行かなければならない(笑)

 

マーモットの丘をあと50mほどで下りきるというところで、いそいそと登ってくる人影。ヘルパーのヤン・ペルだった。おめでとう!おめでとう!といいながら駆け寄ってくる。そしてかいがいしくチャイやビスケットを差し出してくれるのであった。熱くて甘いチャイが心底おいしく染み渡った。しみじみやり遂げたという思いが込み上げてきた。一息ついて立ち上がろうとすると、ヤン・ペルは奪うように私のザックを担ぐのだった。

 

 

そうして3時すぎにテントまでもどるともう、椅子から立ち上がれない。ヤン・ペルは靴まで脱がせてくれた。運んでくれた軽い食事も食べたいが、疲れすぎお腹がすきすぎてろくすっぽ喉を通らないので少しずついただく。留守のあいだに目の前に設営している新たなパーティの女性二人が、どうだったかと話しかけてきた。フランス人パーティで明日の夜アタックだという。天気がもつといいね、と話し合った。

 

 

あとはテントに潜り込んで死んだように眠った。暗くなってディナーに呼ばれる。疲労困憊だがいってみると、ロプサン心づくしの豪華メニュー、ピザにフレンチフライであった。通常の状態ならどれだけ食べまくったことだろう。食べられないのが残念でしかたないが、それぞれ少しずついただく。ガイド二人も隊員もすごい食欲でバクバク食べているのがうらやましい。やはりこのあたりが年齢ということか。

 

ずっとヤン・ペルがチャカチャカなにか混ぜていたが、ロプサンと二人で外にいったとおもったら、なんとケーキを抱えてもどってきた。メレンゲでコーテイングしてある。ヤン・ペルが一生懸命泡立てていたのはこれだったのだ。うれしくて泣けた。いつもは来ない馬方さんも一緒になってみんなでおいしくいただいた。

しかしよく見ると、CONGRATULATIONSのスペルが‥(笑)

 

 

最後まで食べきれないものはダッパーに入れて持ち帰らせてもらった。食べられる気はしないがとても残せなかった。結局翌朝、その辺をいつもうろついている黄色いくちばしのカラスに提供することになったが。

 

翌日は1日で一気にストック村まで帰るという。早朝7時半出発というので、もうあとは泥のように眠るだけだった。やり遂げたという気持ちと、もう登らなくていいという気持ちだけに心地よく包まれていた。